「どうすれば、部下は自発的に、そして意欲的に仕事に取り組んでくれるのだろうか?」 これは、古今東西のあらゆるリーダーが抱える永遠のテーマかもしれません。指示待ちではなく、自ら考え行動し、困難な課題にも共に立ち向かってくれる。そんなチームを率いることができれば、これほど心強いことはありません。
実は、この問いに対する一つの本質的な答えが、2500年以上も前に書かれた兵法書「孫子」に記されています。それが、地形篇にある「卒(そつ)を視ること嬰児(えいじ)のごとし、ゆえにこれと深谿(しんけい)に赴くべし」という言葉です。
これは、「兵士たちを、まるで自分の愛する赤子のように大切に見守りなさい。そうすれば、彼らはどんなに深く険しい谷にでも、あなたと共に行くことを厭わないだろう」という意味です。
一見すると、単なる「部下に優しくしろ」という教えに聞こえるかもしれません。しかし、この言葉の裏には、現代のビジネスシーンにおける心理的安全性やエンゲージメントにも通じる、極めて高度なリーダーシップの本質が隠されています。
本記事では、この孫子の教えを深く掘り下げ、部下との間に絶対的な信頼関係を築き、強い組織を作るためのヒントを探ります。
なぜ「嬰児(赤子)のように」視るのか?
孫子が「部下」ではなく、あえて「嬰児(えいじ)」という言葉を使った点に、この教えの核心があります。リーダーが部下に対して持つべき視線とは、具体的にどのようなものでしょうか。
1. 無条件の関心と成長への期待
親が我が子に対して無条件の愛情を注ぎ、その健やかな成長を心から願うように、リーダーも部下一人ひとりに関心を持ち、その成長と成功を真剣に願う姿勢が求められます。業務上の評価だけでなく、一人の人間としてそのキャリアや人生に関心を持つことが、信頼の第一歩となります。
2. 徹底した見守りと保護
嬰児は、常に親の保護がなければ生きていけません。同様に、部下が安心して挑戦し、時には失敗できる環境を作るのはリーダーの重要な役割です。部下が困難に直面したときには責任を持って守り、理不尽な外部の圧力からは盾となる。このような「守られている」という安心感が、部下の挑戦する意欲を引き出します。
3. 細やかな観察とケア
言葉を話せない嬰児の些細な変化から、親はその健康状態や欲求を察知します。リーダーもまた、部下の表情や言動、仕事の進め方など、日々の細やかな変化に気を配り、彼らが抱える問題や悩みを早期に察知し、適切なケアやサポートを行う必要があります。
現代ビジネスにおける「嬰児のごとく」の実践
この孫子の教えは、決して部下を子ども扱いすることではありません。むしろ、一人のプロフェッショナルとして尊重し、その可能性を最大限に引き出すための、リーダーとしての深い愛情と責任感の表明です。現代のビジネスシーンでは、以下のような形で実践できるでしょう。
- 定期的な1on1ミーティングの実施: 業務の進捗確認だけでなく、部下のキャリアプランや悩み、プライベートの状況にも耳を傾ける対話の場を設けます。これは、部下への「関心」を示す最も効果的な方法の一つです。
- 心理的安全性の確保: チーム内で、どんな意見や質問も、あるいは失敗の報告でさえも、非難されることなく安心して発言できる雰囲気を作ります。「こんなことを言ったら怒られるかも」という不安を取り除くことが、チームの創造性を高めます。
- 責任ある権限移譲: 部下を信頼し、責任ある仕事を任せてみます。そして、その結果責任は最終的に自分が取るという明確な姿勢を示すことで、部下は安心して業務に邁進し、成長することができます。
- 小さな成功や努力の承認: 目に見える大きな成果だけでなく、日々の地道な努力や小さな改善、良い行動を見逃さずに認め、具体的に褒めること(承認)。これが部下の自己肯定感を高め、モチベーションに繋がります。
「深谿(しんけい)に赴く」覚悟を共有する
リーダーが部下を「嬰児のごとく」大切にすることで、部下の中にはリーダーへの絶対的な信頼感が育まれます。
その結果、組織が困難な状況、つまり孫子の言う「深谿(深く険しい谷)」に直面したとき、「このリーダーとなら、どんな困難でも乗り越えられる」「この人のためなら頑張れる」という強い結束力が生まれるのです。
これは、厳しい市場競争、困難なプロジェクト、あるいは組織の変革期といった、現代ビジネスにおけるあらゆる「深谿」を乗り越えるための、何よりの原動力となるでしょう。
まとめ:信頼こそが、組織を動かす最大の力
孫子の「卒を視ること嬰児のごとし」という教えは、リーダーシップとは、権力やカリスマ性だけで成り立つものではなく、部下一人ひとりへの深い関心と愛情、そして育まれた信頼関係こそがその基盤であるという、普遍的な真理を教えてくれます。
部下を管理や評価の対象としてだけ見るのではなく、その成長と幸福を願う一人の人間として向き合うこと。そのリーダーの姿勢が、部下の心を動かし、どんな困難な「深谿」にも共に挑む覚悟を持った、強くしなやかな組織を育んでいくのです。