ビジネスの世界では、日々、大小さまざまな意思決定が求められます。競合の動き、予期せぬトラブル、部下との意見の相違…そんな時、私たちの心には「怒り」や「憤り」といった感情が湧き上がることがあります。しかし、そんな時こそ、立ち止まって思い出すべき古代の知恵があります。
それが、孫子の兵法の火攻篇に記された「主は怒りを以って師を興すべからず、将は慍り（いきどおり）を以って戦いを致すべからず」という言葉です。
これは、「君主は一時の怒りの感情で戦争を始めてはならず、現場の将軍も個人的な憤りで戦端を開いてはならない」という意味です。国家の存亡を左右する戦争において、冷静さを欠いた感情的な判断がいかに危険であるかを、孫子は強く戒めています。
この教えは、企業の命運を左右する重要な判断を下す現代のビジネスリーダーにとっても、決して他人事ではありません。本記事では、この孫子の格言を深く掘り下げ、なぜ感情的な意思決定が危険なのか、そして冷静な判断を保つために何が必要なのかを探ります。
なぜ、リーダーの「怒り」は危険なのか
孫子が感情的な判断を戒めるのは、それが合理的で最適な結論から組織を遠ざけてしまうからです。
1. 視野が狭まり、リスクを見落とす
「怒り」や「憤り」は、私たちの視野を極端に狭くします。特定の相手や事象に意識が集中しすぎるあまり、その行動がもたらす長期的なリスクや、他に存在するはずの選択肢が見えなくなってしまいます。「あいつが許せないから叩き潰す」「この屈辱はすぐに晴らさなければならない」といった感情は、コスト、将来的な影響、そして何より「本当にそれが組織の利益になるのか？」という最も重要な問いを見失わせてしまうのです。
2. 短期的な感情の発散が目的化する
感情に駆られた行動は、しばしば「組織の利益」ではなく「自分の感情の発散」が目的になってしまいます。競合他社への対抗策が、いつの間にか担当者個人への意地の張り合いになったり、部下への指導が、単なる感情的な叱責になったりするケースです。これでは、組織のリソースを私的な感情を満たすために浪費していることになりかねません。
3. 周囲の冷静な意見を遠ざける
リーダーが感情を露わにすると、周囲の人間は萎縮してしまいます。本来であれば進言すべき客観的なデータや、異なる視点からの意見が出にくくなり、結果としてリーダーの誤った判断を誰も止められないという危険な状況に陥ります。いわゆる「裸の王様」は、こうして生まれるのかもしれません。
ビジネスシーンに潜む「感情的な判断」の罠
では、現代のビジネスシーンにおいて、この「怒り」や「憤り」はどのような形で現れるのでしょうか。
- 競合他社への過剰な対抗心: 競合が始めたサービスに「怒り」を感じ、「とにかくうちも同じものを、もっと安く出せ！」と号令をかける。しかし、自社の強みや採算性を度外視した結果、大きな赤字を生んでしまう。
- 部下のミスへの過度な叱責: 部下のひとつのミスに「憤り」、再起不能になるほど厳しく叱責する。結果、その部下は萎縮し、挑戦を恐れるようになり、チーム全体のパフォーマンスが低下する。
- SNSなどでの批判への感情的な反論: 自社製品への批判的なコメントにカッとなり、公式アカウントで感情的に反論してしまう。これにより「炎上」を引き起こし、企業全体のブランドイメージを大きく損なう。
- 思い通りに進まない交渉での拙速な決断: 交渉が難航し、相手の態度に「憤り」を感じ、「もういい、この条件で手を打とう！」と不利な条件で契約を結んでしまう。
これらはすべて、「組織の利益」よりも「一時の感情」を優先してしまった結果の失敗と言えるでしょう。
冷静な判断を保つために、リーダーがすべきこと
では、どうすれば私たちは感情の波に乗りこなされず、冷静な判断を保つことができるのでしょうか。
1. 一呼吸置く（アンガーマネジメント）
怒りを感じたら、即座に反応するのではなく、意識的に「一呼吸置く」時間を作ることが重要です。物理的にその場を離れる、6秒数える、深呼吸をするなど、自分なりのクールダウンの方法を持っておきましょう。
2. 判断の基準を明確にしておく
普段から「この判断は、会社の理念や長期的な利益に合致しているか？」という揺るぎない判断基準を持っておくことが大切です。感情が揺さぶられたとき、その基準に立ち返ることで、冷静さを取り戻すことができます。
3. 信頼できる他者の意見を聞く
自分一人で抱え込まず、信頼できる役員や部下、あるいは社外のメンターなどに意見を求める習慣をつけましょう。異なる視点からの客観的な意見は、感情によって狭まった視野を広げてくれます。
4. 事実（ファクト）と感情を切り分ける
「何が起きたのか（事実）」と「それに対して自分がどう感じたか（感情）」を意識的に切り分けて考える訓練も有効です。感情的な言葉を使わず、事実だけを客観的に書き出してみるのも一つの方法です。
まとめ：冷静さこそが、リーダーの最大の武器
孫子の「主は怒りを以って師を興すべからず、将は慍りを以って戦いを致すべからず」という教えは、2500年の時を超え、現代の私たちにリーダーシップの本質を問いかけます。
リーダーの決断一つが、組織の未来を大きく左右します。だからこそ、リーダーは自身の感情をコントロールし、いかなる時も組織全体の長期的な利益を最優先に考え、冷静かつ合理的な判断を下さなくてはなりません。
怒りや憤りは、人間である以上、自然な感情です。しかし、それを意思決定の場に持ち込まない「理性」と「自制心」こそが、組織を成功へと導くリーダーの最大の武器と言えるのかもしれません。
