「一発逆転の奇策」「絶体絶命のピンチを乗り越えての劇的な勝利」――私たちは、このようなドラマチックな話に心を奪われがちです。しかし、2500年以上も読み継がれる兵法書「孫子」は、そのような博打のような勝利ではなく、もっと堅実で、確実な勝利への道を私たちに示してくれています。それが、軍形篇に記された「善く戦うものは、勝ち易きに勝つ者なり」という言葉です。
一見すると、少し地味で当たり前のように聞こえるかもしれません。「勝つのが簡単な状況で勝つのが上手な戦い方だなんて、誰でも分かるじゃないか」と。しかし、この短い言葉の裏には、持続的な成功を収めるための、そして無用な消耗を避けるための深い洞察が込められています。
本記事では、この孫子の兵法の格言の真意を探り、変化の激しい現代のビジネスシーンにおいて、私たちがどのようにこの教えを活かすべきかを考察します。
「勝ち易きに勝つ」とは、具体的にどういうことか？
孫子の言う「勝ち易きに勝つ」とは、決して単に運が良いとか、相手が偶然弱かったということではありません。それは、戦いが始まる前から勝利がほぼ確定しているような、圧倒的に有利な状況を自らの手で積極的に作り出し、その上で確実に、そして最小限の労力で勝利を掴むことを意味します。
具体的には、以下の３つの要素が重要になります。
1. 事前の周到な準備と分析
まず何よりも、敵（競合）と味方（自社）の力を徹底的に比較分析します。自社の弱点を正確に把握し、それを補強する策を講じる。同時に、自社の強みを最大限に活かせるような態勢を整えます。情報収集を怠らず、あらゆる可能性を検討し、計画を練り上げることが基本です。
2. 有利な戦場（市場）と時期の選択
不利な条件で無理に戦いを挑むことは愚策であると孫子は説きます。自軍にとって最も戦いやすい場所、タイミング、つまり、自社の強みが最も発揮でき、競合の弱点を突きやすい市場や事業領域を選択することが肝要です。
3. 反撃の隙を与えないようリスクの徹底的な最小化
勝利を確実なものにするためには、敵に反撃の隙を与えないよう、あらゆるリスクを事前に想定し、それに対する具体的な対策を講じておく必要があります。楽観的な見通しを排し、最悪の事態も考慮に入れる冷静さが求められます。
つまり、「勝ち易きに勝つ」とは、派手な奇策や偶然の幸運に頼るのではなく、徹底した準備と合理的な判断によって、勝利の確率を極限まで高め、負ける要素を限りなく排除する戦略なのです。
現代ビジネスにおける「勝ち易きに勝つ」ための戦略
この孫子の教えは、競争がますます激化し、変化のスピードが速まる現代のビジネスシーンにおいても、非常に重要な示唆を与えてくれます。「一攫千金」や「玉砕覚悟の特攻」のような華々しい（そして危険な）成功ばかりを追い求めるのではなく、より確実な成長と持続的な成功を積み重ねるために、私たちは「勝ち易きに勝つ」ための戦略を意識する必要があります。
具体的には、以下のようなアプローチが考えられます。
1. 徹底的な市場調査と競合分析
新しい事業を立ち上げる際や新製品を市場に投入する際には、市場のニーズ、規模、成長性、そして競合他社の戦略、強み、弱みを徹底的に調査・分析します。これにより、「勝てる見込みの高い」魅力的な分野や、まだ満たされていない顧客のニーズを見極めます。
2. ニッチ市場の開拓（ブルーオーシャン戦略）
既に多くの企業がひしめき合い、激しい価格競争や消耗戦が繰り広げられている既存市場（レッドオーシャン）で無理に戦うのではなく、まだ競合の少ない、あるいは存在しない未開拓のニッチな市場（ブルーオーシャン）を見つけ出し、そこで独自のポジションを確立し、圧倒的なシェアを狙います。
3. 自社の「強み」を活かせる事業領域への集中
自社のコアコンピタンス（他社には真似できない、核となる独自の強み）を明確に定義し、その強みを最大限に活かせる事業領域に経営資源（ヒト・モノ・カネ・情報）を集中させます。不得意な分野や、強みが活かせない土俵で無理に戦うことを避けるのが賢明です。
4. 既存顧客との強固な関係構築と維持
新規顧客を獲得することも重要ですが、既存顧客との良好な関係を維持し、顧客ロイヤルティを高めることで、安定した収益基盤を築くことはさらに重要です。一般的に、新規顧客獲得コストは、既存顧客維持コストの数倍かかると言われています。「勝ち易い」のは、既に自社を信頼してくれている顧客からのリピートやアップセルなのです。
5. 段階的な目標設定と着実な達成
最初からあまりにも大きな、現実離れした目標を掲げるのではなく、達成可能な具体的な小目標（マイルストーン）を段階的に設定し、一つひとつ着実にクリアしていくことで、チームの成功体験を積み重ね、組織全体の自信と実行力を高めます。小さな「勝ち」を積み重ねることが、大きな「勝ち」に繋がります。
「勝ち易きに勝つ」ために、ビジネスで避けるべきこと
逆に、「勝ち易きに勝つ」という孫子の教えに反する、ビジネスにおいて避けるべき行動とは何でしょうか。
1.準備不足での見切り発車
十分な市場調査や競合分析、事業計画の策定を怠り、楽観的な見通しや思いつきだけで新しい事業やプロジェクトを開始すること。
2.自社の能力以上の過大な目標設定
現実的なリソースや組織の能力を無視した、達成困難な高すぎる目標を掲げ、チームを疲弊させること。
3.感情的な意思決定や判断
冷静なデータ分析や論理的な思考に基づかず、経営者やリーダーの一時的な感情や個人的な思い込みで重要な経営判断を下すこと。
4.成功確率の極めて低い博打のような挑戦
十分な勝算や裏付けがないにもかかわらず、社運を賭けるような、一か八かの大きなリスクを取ること。
まとめ：堅実な戦略こそが、真の強さを生む
孫子の兵法が説く「善く戦うものは、勝ち易きに勝つ者なり」という言葉は、一見すると地味で、派手さはないかもしれません。しかし、この言葉には、持続的な成功を収め、無用な失敗を避けるための普遍的な真理が凝縮されています。
ビジネスの世界においても、一時の華々しい、しかし不安定な成功を追い求めるよりも、地道な準備と冷静な分析に基づき、着実に、そして効率的に勝利を積み重ねていくことの重要性を再認識すべきでしょう。「勝ち易きに勝つ」ための有利な状況を自ら積極的に作り出すことこそ、真の戦略であり、企業の揺るぎない強さと持続的な成長の源泉となるのです。
